さて、カイロスをめぐって論じてきたが、例えばパウロがイエスにおいて、個人史的な意味でのカイロス性を超えて、さらに世界史的・宇宙史的なカイロス性を認識したという場合、それはあくまでもパウロ個人の主観的判断・観念の業にすぎないのではないかという問題がある。だが彼においては、「ところが今や」というカイロス的直観、しかも彼個人のこととしてのみならず、同胞全体のこととして（『ローマの信徒への手紙』９−１１章）受け止められている。そのあたりの消息を証言する言葉としては、『ガラテヤの信徒への手紙』４：４の「しかし、時が満ちると」（ギリシア語原文の字義通りの表現では「クロノスの充満が到来したとき」である）がある。もちろん、それとても彼の主観的・観念的な解釈ではないかという反論は当然ありうる。私はむしろ、彼の主体的な受け止めとして、単なる主観性とは区別するべきではないかと思う。それは、傍証として言及するとすれば、キルケゴールが、「Subjektivitat( subjectivity) こそ真理である」と述べた際に意味していたのは、「主観性」ではなく「主体性」と訳すべき事柄であり、それに呼応する把握であろうと思う。パウロの、「目から鱗のようなものが落ちた」というあの有名な「ダマスコ途上の」回心の出来事は、主体的な体験であって単なる主観的な経験ではなかったのだという問題は、自らが主体的に関わらざるをえない経験を踏まえないかぎり、いずれに組するにせよ、客観的に証明できるような事柄ではないであろう。いわゆる「後知恵」としての世界史的な考察のなかでは、パウロの回心を、ユダヤ的な文化が、ヘレニズム的文化のなかに、その変質を迫りながら自らを止揚しつつ新しい普遍性のうちに変貌した過程と了解することも可能であろう。それを「偶然」と称しても、あるいは「歴史の皮肉」と解しても、誰も客観的認識などとは断じえない。歴史を主体的に語るということは、そういう自らのぎりぎりの参与的判断が迫られる作業でしかありえない。
　そのことは、現代の自然科学が、とりわけ「ビッグ・バン」と宇宙の膨張などの現象を、さらにまた量子力学誕生以来の天体物理学的知見に照らして、その各過程出現の確率が無限にゼロに近いものとされる不思議に接するとき、はたまた現代分子生物学的な知見が増えるにつれて、その驚異的に絶妙な進化の過程を、限りなくゼロに近い確率でしか考えられないときに、あくまで「偶然」という「信念」に固執することが、それを例えば「自然の摂理」と表現することより、「より客観的・科学的」と言えるのかとの微妙な事柄に呼応するとも言えよう。これは、数理論的な理性が判定を下せるような事柄ではなく、むしろ「直観」が物言う次元の事柄ではあるまいか。　それは村上和雄筑波大学名誉教授（遺伝子解読で世界的に認められている第一級の科学者）が「 Something Greatの促し」と表現するような了解、あるいは佐藤　進京都大学名誉教授（振動制御、科学技術論で著名な科学者）が「自然の摂理」と表現するような事柄に通じるのではなかろうか。
　クロノスを断ち切って立ち現れるカイロス的リアリティーとは、宇宙・人生への参与的な（シンクロニスティックな）、きわめて精妙な（subtle）了解・直観に関わる事柄ではなかろうか。P・ティリッヒが、" acceptance of acceptance"（受容の受容＝「受け容れられていることを受け容れること」と表現したときに含意していたような現実了解だとも言えようか。

　要するに、クロノスのただなかでカイロスが生起することには、どのようにしてかは定かではないのだが、各人の「心の構え」とでも言うべき姿勢いかんが関わっているのであろう。まさに「聴く耳ある者は、聴くべし」である。それに関して思い出される英詩がある。最後にそれを引用するのをお許しいただきたい。　
　

One ship drives east and another drives west	あるものは東に、もうひとつは西に
With the selfsame winds that blow.	おんなじ風で船は進むが
'Tis the set of the sails	ゆくべき道を示すのは
And not the gales	疾風（はやて）ではなく、
Which tells the way to go.	それは帆のかけ方。
Like the winds of the sea are the ways of fate,	海の風に似ている運命の風
As we voyage along through life:	生涯を旅するときに
'Tis the set of a soul	ゴールをきめるのは
That decides its goal,	凪（なぎ）か嵐かではなく、
And not the calm or the strife.	それは心の構え方。

われわれ人類の未来はどうなるであろうか。希望を失いがちな現代においても、深い警告と同時にさらなる求道の方向を指し示す暗示に満ちた言葉がある。

そういいう「霊＝風（プネウマ）」は、われわれの魂の注ぎ出しとしての「求め」を凌駕しつつ「新しく＝上から（アノーテン）」、カイロスとして、しかも「思いのままに吹く」（『ヨハネによる福音書』３：８）のかも知れない。それはいわば「言霊（ことだま）」として、人間の魂に真っ当な言葉を預け、老人たち（複数であることに注意！）には死や虚無を突き破る魂の高揚を感じさせ、若者たちには将来の展望を広げさせるということの徴表であろうか。

いずれにしても、私が「語ることを止める」べき「カイロス」がすでに来ていることは、確かなことだと思う。ご清聴を心から感謝いたします。